●入院生活日記97

Nov.14.1997 Fri

その日は、数日前から疲れがたまっており、 せっかく取った有給も、展示会や飲み会に行ったりして、 ちょっとハードなスケジュールが続いていた。 そのためか、少しだが胸の痛みが起きていた。 僕は、この胸の痛みをよく知っている。 気胸(ききょう)という病気だ。 気胸は、何らかの原因で肺に傷が付き、そこから空気が 漏れて、肺が小さくなってしまう病気である。 よく痩せ型の人がなりやすいというが、 原因はよく分かっていない。 普通は息苦しくなるのだが、 なぜか僕の場合、その症状は1度も無い。

今朝、いつものように出勤してパソコンの前に座っていると、 突然胸の痛みがひどくなり、更にめまいがして気持ち悪く なってしまった。「今度は、本格的に再発したか」 気胸は安静にしていればほとんどのケースで治るので、 今日は早退して安静にすることにした。

Nov.15.1997 Sat

もしかすると、ひどい状態になっているかもしれないので、 一応病院で検査を受けることにした。 気胸は、大きい病院でないと治療できないだろうから、 初めから日本医科大学付属多摩永山病院へ向かう。 レントゲンを撮ってみると、やはり気胸の兆候があった。 しかし、まだ軽い症状だったので、治療するにも 神経の多い肩に近い部分に穴を空けなければならないので、 とりあえず安静にしておく処置が取られた。 そして、次の診療までの間、会社を休むことにした。

Nov.19.1997 Wed

家で安静にしていたおかげで、レントゲンでも 症状の悪化は見られなかった。 気胸は、入院して安静にしているだけでも 回復の兆しが見えるまで4週間かかるというから、 この調子で行けば、治るだろうと予測し、 会社にも無理をせず行けることになった。

Nov.26.1997 Wed

会社に行っても無理せず定時に帰っていたおかげで、 胸の痛みもほとんど無くなっていた。 そろそろ回復の兆しが見えるだろうと、 安心して病院へ向かう。 しかし、現実は甘くなかった。 レントゲンの結果、肺がややしぼんでいるという。 「これは入院だな」 あっさり言うYN先生。人の気も知らないで。 「様子を見ようにも、現に症状が出てるしねぇ」

突然騒がしくなったように、看護婦から質疑応答し、 別の先生がやってきた。 「症状は軽いですけど、このケースでは大体の先生は 入院と判断しますよ」 どうやら入院は避けられないようだ。 実は、前に気胸と診断されたときは、 気分が悪くなってしまったのだが、 今回は一度経験したことがあるせいか、 しっかりしていた。 親は元気か、おじいちゃんは、何が原因で亡くなったか、 といった先生との事務的な質問が続いて最後に一言。 「一つ考えて欲しいのですが、 もしかすると手術ということもあるかもしれません。 考えておいてください。」 少し気分が悪くなった。

採血や心電図などを終え入院の準備にかかる。 入院の準備は一応あるが2時間しかない。 一度南大沢に帰って、寮長に第2保証人になってもらった。 第2保証人は近くに住んでいる人が条件だからだ。 第1保証人は親がなる。 親は実家にいるので、印鑑は自分と同じ物を押した。 入院に必要なもの(実際に必要になったもの)は次の通り。

病院へ戻ると、ピピピという心拍音とともに慌ただしい 部屋へ案内された。 僕は別に胸の痛みも無く呼吸も苦しくなく、 まったく正常だったのだが、部屋が空いてないらしく、 重症患者用の部屋に入ることになった。 当然、御年寄りばかりで非常に居辛かった。 御年寄りは駄々をこねる子供と同じだ。 夜になるとやたらとナースコールして、 看護婦さんを困らせる。 「歯磨きしなきゃ」 「さっきしたでしょ」 この繰り返しだ。 また、すこし慌ただしくなった。心拍音が 早くなったり遅くなったりして、 ついに音が無くなった。

Nov.27.1997 Thu

医者とおばさんがしゃべっている。 「元気だったのにねぇ」 「今回は本人も駄目だと分かっていたようですよ」 昨日のことかな。

医者は病気を治すだけでなく、いかに心配をかけさせない かも仕事のうちだ。そのせいか、話のわかる先生が 多い気がする。 昨日、手術も考えておくように言われたが、 同時に軽い手段として、肺から空気を抜いて (肺と、肺の入っている部屋の間にたまる空気を抜いて) 再び肺が縮まなければ退院できる方法もあるから、 一晩考えるように言われていた。 考え杉かもしれないが、 これは患者の心理をコントロール していると思う。その軽い手段は、 非常に治る確率が低いということと、 時間がかかるということを言っておいて、 患者がどう考えても手術した方が楽だと結論させる ものとしか思えない。それが証拠に、既にT先生は、 肺の手術をする先生に渡す紹介状を用意していた。 結局、最悪のケースである手術になった。

重症患者の部屋のせいか、看護婦さんも優しい。 担当の看護婦は新人のYSさん。 「たますだれ」の芸を持つ変な奴。 今度は皿回しに挑戦するとか。とほほ。

病院の食事は、老人向きの味付けだ。 僕のきらいなショウガやシソが必ず入っている。 漬物も訳の分からない味と色がする。 量は十分にある。いやありすぎる。 でも、栄養士さんが計算しつくされたメニューだから 食べないわけにもいかないだろう。

N 課長がわざわざ見舞いに来てくれた。 課長はわざわざ両親に連絡してくださり、 僕が連絡したときは既に課長から連絡があって、 つたないしゃべりするひとだな、と言われていた。トホホ。 病院では課長の噂はすぐ広がった。 「何か手伝うことがあればなんでも言ってください」 先生は困ったそうだ。 いい上司を持ったものだ。

Nov.28.1997 Fri

肺に管を通す簡単な手術が行われた。 左乳首の左 5cm の位置のあばら骨の間に、 穴を空けて管を通す手術だ。 この管を通って空気が抜け、吸い出す圧力を ゆっくりかけることで、縮んだ肺を元に戻す。 穴は硬い棒を使って手で開ける。つまり、 先生が僕の胸に棒を突き刺すのだ。 麻酔をかけメスで筋肉を破る。これは意外と痛くない。 そして、肺の部屋の硬い壁に当たる。 ここからは、先生が力づくで開けなければならない。 突然、携帯のベルが鳴り出した。 おいおい、先生が持ってていいのかよ。 先生はベルを無視してぐいぐい棒を押す。 ボコッという骨の折れるような音がして、 激痛が走る。どうやら、棒が肺の部屋に入ったようだ。 入っている様子が感覚でわかる。 気持ち悪くなってしまった。 血圧を測ると90-72と低くなっている。なるほど。 しかし、失敗だった。呼吸すると管から空気が出入りする のだがいくら深呼吸しても反応が無い。どうやら、 筋肉と肺の部屋の間に入ってしまったらしい。 先生は手を振るわせながら無言で2本目を入れる。 唯一、看護婦さんが僕の手を握ってくれたおかげで 勇気づけられた。 2本目も失敗した。同じ激痛が走る。 若い人は硬いなぁ、とY先生はのんきなことを言う。 3本目が入る。先生もかなりつかれているようだ。 ボコッとこれまでとは違った感覚で、今度は痛くなかった。 成功だ。しかし、このまま入らなければ何度も 繰り返されていたのだろう。 管は壁に付いている吸い込み口につながり、 いかにも病人らしくなった。 ベッドから離れられなくなったので、 今日から尿瓶(しびん)生活。

Nov.29.1997 Sat

両親が来た。先生から説明を受けるためだ。 手術は金曜日に決定。 肺は、肺胞と呼ばれる小さなバブルから成っていて、 肺の中から気圧が掛かっているので、 健康な人は肺が膨らんでいる。 空気が漏れるとその外圧が強くなり、肺が縮む。 ひどい気胸患者は、肺に、直径5mmぐらいのブレブ(〜)と 呼ばれるできものが出来て、それが破れブラになって レントゲンでもはっきり見えるという。 今回のケースは、CT で見てもブラが見つからなかったのだが、 確かに空気が漏れているので、手術には変わりが無い。

肺の病気は外科の担当なので病棟が変わった。 ようやく重症患者用の部屋から開放され、 パソコンも使えるようになり、テレビも見れるようになった。 しかし、外科は看護婦の態度が違う。 お姉さん風でさばさばしている。 おばさん看護婦は、堅物が1名いるだけなので、 自由にやってる感じがする。 まぁ、そんなもんだよな。

Nov.30.1997 Sun

日曜日のせいか、病院ものどかだ。 朝の太陽を見たのは何年ぶりだろう。 これが日曜日なんだよな。

暇を持て余しつつ、寝ていると、会社の同期生が来た。 おぉ、遅かったじゃないか、と思いつつ、話しが弾む。 お見舞い品は、果物の詰め合わせ。 おお、ありがちだ。 しかし、どうやって食べるのだろう。 缶詰持ってきて缶詰忘れた状態と同じだ。 加藤(書記)さんから事務的なラブレターをもらって、 4日以上の医療休暇は給料の 65% が健康保険から 払われることを知った。なるほど。 部屋代も3人以上の部屋なら健康保険からおりるそうだから これで安心だ。でも手術代でボーナスは無くなるんだよな。

Dec.1.1997 Mon

今日から師走。街ではもうクリスマスツリーが 飾られている、とニュースでやっている。 せつないのう。

今朝は、胸の痛みが耐えられないほど痛い。 いつもレントゲン室まで車椅子で行くのだが、 少し振動があるだけで痛い。 レントゲンのために体を起こすだけでも痛い。 何とか撮影も終わり、ついでに、トイレに行き、 初めて車椅子用のトイレに入った。 手すりがあるだけで、普通の洋式便器だった。 ひどく胸が痛むのでゆっくりと座り、 なんとか終えた。 しかし、体を少し傾けても激痛が走るので、 拭くのが大変だ。体がまっすぐでは手が届かない。 痛みをこらえてゆっくり体を傾けることに成功し、 無事に済んだが、これだけ体力を使ったのは初めてだ。

車椅子で連れてこられたので、 済んだらナースコールを押すように言われていたので 押した。 トイレで押すときは危機的状況だと思っていたので 看護婦さんが慌ててくると思ったが、 堅物婦長がゆっくり来ただけだった。 非常ベルのボタンとえらい違うな。

レントゲンの結果、空気の漏れが少なく、 常に圧力をかける必要が無くなったので、 管が壁からはずれた。 かわりに弁当箱サイズの箱をぶら下げて、 管から何か漏れても大丈夫なようにする。 これで、ベッドから開放されたが、 胸の痛みはこれまでに無いものになっていた。 肺の部屋の壁と肺の外膜が再びくっついたためだろう。 痛み止めは、あるにはあるが、座薬(尻から入れる薬) しか無いという。仕方ない。

Y先生と手術の詳細の話になった。 どうやら、少し穴を空けて内視鏡を使う手術では 完治できないかもしれないらしい。 そこで、初めから脇腹を 15cm くらい切って 直接肺を見て手術した方がいいらしい。麻酔の先生に うまくしてもらうから痛みは変わらないけど 傷口が目立つから一晩考えて欲しいということだ。 また、この作戦か。そう来ると思ったよ。 これまでに、ひどいときは大きく切るよと 言われてきたから、そうなる結末は既に 覚悟は出来ていたさ。

昨日までの会計は、約 \37,000。 社会保険に入っていたので、医療負担額は2割だけ、 共同部屋の部屋代はなんとタダである。 保険代が毎月2万も取られて高いなぁと思っても、 こういうときに助かるよなぁ。 国民の皆様に感謝ですな。

Dec.2.1997 Tue

今日は朝から頭がぼーっとしていた。 今朝もレントゲンを撮影に行くのだが、 体も自由になったことだし、歩いて行くことにした。 おお、病院はこうなっていたのか、と今ごろ気づく。 ベッドにばかりいると、意外と周りが見えないものだ。 歩いている途中に、ISDN 公衆電話を発見! 実は、この入院のためにモデムカードをカードで 購入していたのだ。トホホ。 これで、暇つぶしにパソ通ができると思い、 だるい体を無理して接続に成功。 しかし、おかげで、気分が悪くなり、 回診の先生にも分からない症状になってしまった。 普通の気分が悪くなるよりも今回のはひどい。 気胸は治療できてもこの気持ち悪さはどうにも できないのだ。外科病棟のせいか、 看護婦も特に処置をしてくれない。 こうなったら自分だけが頼りだ。 気持ちが悪くなるのは、血圧が下がることが多いのだが、 今回は正常。しかし、それ以外に原因は無いと考え、 頭の痛い右の頭を下にした。 4時間ほど苦しみながら寝て、何とか治ったのだが、 医者は意外と何も出来ないものだと感じた。

Dec.3.1997 Wed

入院以来、入浴が禁止されている。 病院から暖かいタオルを3枚ほど配られるので、 それを使って体を拭くだけである。 洗顔も顔専用タオルで拭くだけである。 頭は、そのあまりのひどさに気づいたのか、 今日、洗髪してくれることになった。 (ホントは言えばしてくれるのだが、 忙しそうなので頼みづらい) 洗髪してもらって1つわかった。 やっぱり理髪店は上手い。
手術前の麻酔チェックの注射を3本打たれた以外は、 平和な一日だった。

Dec.4.1997 Thu

入院して9日目。いよいよ手術が明日になり、 看護婦さんが少し相手してくれるようになった。 手術前には、おなじみの、剃毛タイムがある。 今回は、左胸ということで上半身(前後)だけでいい。 さすがにその中堅看護婦さんは 何度も剃毛したことがあるせいか、 剃った後がヒリヒリしない。さすがだ。 最大の難関、左脇もクリアし、無事に剃毛タイムが終わった、 かに思えたが、起き上がってみると そこらじゅうに血が付いていた。 よほど、クリームの効き目がよかったのだろうか。

手術にはイロイロなものが必要になる。
浴衣は、持っている人もいるだろうが、 僕は持ってなかった。\2500。 胸の包帯(胸帯)が売っているらしい。\1800。 ふんどしのような T 字帯が ... のように、手術のときにしか要らないであろうものを、 買っておいてというのだ。 そんなの持っているわけない。 結局、病院の業者の人に頼めばいいので助かった。

Dec.5.1997 Fri

手術の前の夜は、下剤と睡眠薬をくれる。 下剤は、手術後に寝たきりになるので、 寝たまましにくい大便が出ないようにするため、 睡眠薬は緊張して眠れなくなる人が多いためである。 僕は、手術が2回目なので眠れなくなることはなかったが、 翌日(今日)は、下剤に続く浣腸が待っていた。 ベッドでやられたのでトイレまで急がなければならない。 距離にして約 30m。患者にとっては相当な距離である、 そのせいでズボンがかなり濡れてしまった。 なぜ、トイレの前でしないのだろう?

手術は昼からだったので、それまでの時間が 非常に長く感じる。 今回の手術は前回と違って、手術前の意識があるうちに 鼻から胃へ管を入れられることもないし、 尿道に管を入れられることもないので安心だ。 1時間前、おとついに抜いた点滴の針に代わって、 太い針が入れられ、 いよいよ手術が始まる雰囲気になってきた。 15分前、両肩も開閉できる手術着に着替え、 T字帯(ふんどし)に履き替え、 筋肉注射が入り、爪を切る。 手術の時間 12:00 になって、 車椅子で手術室まで送られる。 眼鏡を取っていたので、中央手術室に入っても 周りがよく見えなかったので、 恐怖を具体的に感じない。 狭い手術用のベッドに乗せられる。 いくつもの部屋を通り抜け、 まるで厳重に警備された要塞のような雰囲気だ。 最後の部屋に入り、ドラマで見慣れた 約8つのライトが目に入ると、 猫に捕まってもがくのを諦めたねずみの気分になる。 (まな板の上の鯉状態ともいう)

タオルをかけられ、手術着を取られる。 医学が発達しても、やっぱり、裸で手術するんだよな。 血圧計、心電図、心拍数などのセンサーが 体中につけられる。 脊髄麻酔のために横向きになる。 背中からやられるので、恐怖感を煽る。 細くて長い針をこれから入れますと、 やさしくその針を見せてくれた。 痛みは、普通の注射程度。 しかし続けて、細い管が入る。 押される感じがするだけなのだが、 ぐぐっと何かが入ってくる感じがする。 そして麻酔が入れられた。 ぴりぴりした感じが神経を伝わっていく。

仰向きに戻され、小さな手術台から落ちないように 手足を縛られる。 酸素を送るおなじみのカバーが口に付けられる。 「麻酔が入りますよ〜、少し眠くなりましたね。」 僕は、はい、と返事した。はっ、これは、と思ったら 既に手術は終わっていて体中がだるくなり、 鼻に突っ込まれた管で吐きそうになった。 しまった。実は前回の手術でも全身麻酔を使たので 今度こそ麻酔に耐えてみせようと思ったのに。 前回はだんだん眠くなるので、 寝るまで返事を繰り返してくださいね、 と言ってくれたのに、今回は知らないうちにやられて つまらなかったなぁ。 左に2つ、右に3つの部屋のある肺のうち、 左上の上端を切り取る 16:30 まで長引いた手術だった。

看護婦さんが慌ただしく僕の服を整えるか 何かしている。時々、おわりましたよ、と 声をかけてくれるが、はいと返事しても、 忙しくて返事する余裕が無いようだ。 そのまま手術室から出て行くのが分かる。 あっという間に病室に戻った。 すぐに鼻に突っ込まれた管が抜かれ、 少し楽になった。 レントゲンをベッドの上で撮り、 採血される。 体は何処も痛くない。 しかし、非常に疲れている。 少ししゃべりづらいが、 きちんとしゃべることができる。

手術した日なのにもう夕食が出た。 しかし、全身麻酔のため、 消化器などの体が麻痺しているので、 夕食は、重湯(「おもゆ」:ご飯の上汁)カップ一杯と 正体不明のスープ・カップ一杯と牛乳だ。 もちろんまずいのだが、舌も麻痺しているのか、 慣れてくると御飯と野菜スープに思える。

今夜は看護婦さんがやたら体温、血圧、脈拍を 計りに来る。少し熱があるが正常である。 親切に手伝ってくれる。 緊張や不安で眠れないことは無かったが、 何度も起こされるので十分に寝た気がしなかった。

Dec.6.1997 Sat

手術2日目の朝も重湯。でも少し米が入っている。 看護婦さんにベッドを少し起こしてもらい、 気分がいいので、パクパク食べた(流し込んだ) ら、気持ち悪くなった。気分はよくても術後の体は、 まだ働いていないのだ。 自分が思っているより数十倍遅くないと駄目なようだ。

前回と違って、手術前に尿道に管を入れられたり、 鼻に管を入れられたりすることはなかったが、 尿道には、手術中に管が入れられていた。 まぁ、これはこれで、トイレに行かなくて済むから 楽なのだが、時々ちゃんと流れるように看護婦さんが 管を触ってコポコポと尿が流れていくのが分かるのが 変な感じだ。

尿意を感じるか確認するために一度、 管を閉じた後、尿道から管を抜いた。 やっぱり尿瓶を使ってでも自分でした方がいいものだ。 しかし、このあと恐ろしい出来事が起きるのだった。 尿意はあるのだが、出ないのだ。 いくらふんばっても、腹を押さえても、 トイレにいる想像をしても全く反応しない。 4時間もこの状態が続いているのだが、 これが長引けば別の病気になってしまう可能性もある。 一大決心をして、尿瓶をケースに戻して T字帯を戻した。尿意があるのに元に戻すのは 本来と逆の行動である。 4人部屋の視線も多少影響しているのであろう。 機を見計らってカーテンを閉め、一気に尿瓶を取り出し、 力の限りふんばった。 ついに、少し出た。助かった。 と思うのもつかの間、すぐに勢いが無くなっていく。 とっさの判断で、腹に力を入れ何とか有害な液体を 体外に押出そうとするのを何度も何度も行った。 なかなか尽きなかったが、何とか一命を取りとめた。

手術の直前に入れた脊髄麻酔の管は、まだ入っている。 夜と朝、その管から痛み止めを注射するためだ。 背中がひんやりして神経を通っていく感じがする。 特に痛くなかったのだが、この痛み止めのおかげ なのだろう。しかし、管が入っているのは気持ち悪い。

今夜、手術後最大の熱が出た。39.6'C だ。 でも、氷枕、座薬といつもの対処。 まぁ、風邪と違って気分は悪くないからいいか。

Dec.7.1997 Sun

今日の朝食はまだ重湯だったが、 気持ちよく食べることが出来た。 しかし、体中が痛い。 全身筋肉痛+強烈な左肩こりが、僕の体を襲う。 まだ、術後の体なのだ。

ようやくベッドの上で座れるようになり、 やがて歩くことが出来るようになった。 頭がふらふらするが、ほろ酔い加減みたいなので、 気持ち悪くはない。 しかし、体の左半分が突っ張った感じがしてキツイ。 体がバターのように固まっているのだ。 だから、相変わらず一人で起きることは出来ない。 そのバターは、思わず出てしまった咳によって、 痛みを伴いながら砕けた感じがした。 もしかすると、今日の昼に打ったぷどう糖点滴が 固まったのではないだろうか。

会社の同期が来た。 お見舞い品は忘れたそうなので、 新作CDを買ってくるように命じた。

自分で歩いて行動していると回復も早いそうなので、 身の回りの整理をしたり、トイレに行った。 体を襲う痛みはかなりあったが、 早く回復したいという気持ちから、何でもやった。 しかし、無理をしたので、夕食はしばらく口に出来なかった。

新作CD を見ると、買ってくるように命じた CD のほかに、僕のキライなアーティストの曲もあった。 プレゼントか、それともいやがらせか、 はたまた単に自分の分を取り忘れたのか、 奴の性格からしてプレゼントではないことは確かだ。 後で返そう。

Dec.8.1997 Mon

昨日あれだけ動いたから、 きっと体調も戻っているだろうと思ったが、 今日もベッドから起きることが出来ない。 夢の中では自由に走りまわっていたというのに。 ベッドを起こしたままにすれば、 自由に歩くことが出来る生活に戻れる。 でも、歩けないと絶望したわけではないので、 それほど歩けることが嬉しくはなかった。

回診では脊髄の管が取り外され、 あとは、肺につながった、術中の残り液や体液などを 体外に放出するために付けられた管が一本 つながっているだけだ。 昼食を取りに行くと、ようやくおかゆではない まともな御飯になっていた。しかも五目御飯だ。 と喜ぶのもつかの間。 背中の痛みが頂点を迎えた。 ベッドの上で 1cm でも手足を動かすと、 背中に激痛が走る。 その痛みは肩こりに似ているが、その痛みを 更に痛めつけるように深く食い込んでくる痛みだ。 息が荒くなり、気分も悪くなっていく。 看護婦が痛み止めを渡そうとするが、 前からもらっているものなので効果が無いとして拒否。 よく効く筋肉注射という手もある。 しかし、自分の頭の中では、ある答が出ていた。 なんと、ただのシップである。 実は、11/28 の軽い手術のときにも同じ痛みを訴え、 内科のT先生にシップを渡された経験があるのだが、 実際に効き目ははっきりしなかった。 しかし、この肩こりのような病状から判断すると、 腰痛と同じ部類の原因が考えられる、つまり、 シップがいちばん効くと考えられるのだ。 そして、数時間後。 治療は成功し、痛みは沈静方向に向かっていた。 Y先生によれば、術中の残り液や体液などを 体外に放出するために付けられた管が、 背中に向かっており、それが神経に何らかの影響を与え、 痛みが発生したものと推測している。 (結局、処置は特になし) 手術の恐怖は、こんなところにもあったのだった。

Dec.9.1997 Tue

昨日までの恐怖の日々とは異なり、 一転して体調がよい。 昨日の背中の痛みもほとんど無い。 肺につながった管のせいでぎこちないのだが、 体が軽快に動いているように感じる。

しかも、今日から看護婦の卵である多摩看護学校の 生徒が研修に来て、生徒が一人、僕に付いた。 挨拶も初々しい。 看護婦は患者とのコミュニケーションが大事なので、 学生さんは次々とお見合いのような質問をぶつけてくる。 まぁ、僕も鬼ではないし、 久しぶりの明るい出来事だったので、 話しを合わせ、盛り上げていった。 しかし、それが間違いだった。 彼女は調子に乗って一方的に話すようになり、 まるで大学時代の家庭教師の教え子のガキのように なってしまった。 だんだん顔もあのガキのように見えてきた。 疲れた。

相変わらず起きるのに苦労するが、 体を傷めずに起き上がる画期的な方法を発見した。

  1. 右足でリフティングするように右ひざを上げる。
  2. 右ひざに両手で捕まる。
  3. 右足を真っ直ぐ戻すようにすると、 重心がずれていき、体が起き上がる。
これは素晴らしい。 これでようやく、起きるためだけに看護婦の手を 借りる必要は無くなったのだった。

Dec.10.1997 Wed

今日はボーナス! きっと銀行に何十万もの金額が振り込まれているのだろう。 でも、そのうちいくら病院に取られるのだろう。

今日も軽快。そして、ついに管を取ることになった。 回診で先生たちが僕のベッドを囲む。 包帯とテープがはがされて消毒する。しみる。 そして息を吸ってはいた後、管を抜き終わるまで息を止める。 Y先生と名も知らぬ先生が協力して管を、 ずにゅうっと抜いていく。意外と長い。苦しい。抜けた。 さて残った穴はどうするのだろう。 やっぱり針で縫うのかな。 予想通り麻酔を刺され、ちくちくっと縫っていく。 うぬっ、くあっ。これは拷問だ。 最後に糸を縛る。ぐあぁっ。 ふうっ、終わった。 でもまだちくちくする。 管につながっていた体液入れが持っていかれる。 さようなら。長い間ありがとう。僕の分身。

夕方、テレビを見ている最中に、N課長が訪ねてきた。 そうか、今日はボーナスだから来たのか。 額を見て予想より少し少なくてちょっぴり残念。 それでも初めてもらう大金なので嬉しい。 入院さえしなければ。

管を抜いたところが、注射を打たれるような感じで チクッ!チクッ!として痛い。 しかも、骨がぐにぐにっとずれるような感じがして、 それがチクッ!を刺激する。 自力で起きられないぐらいだ。 先生、変なところを縫ったんじゃないだろうなぁ。

Dec.11.1997 Thu

いつものように健康状態の夢から覚めて 痛い体を引きずる生活が始まる、 と思いきや、昨日のチクッ!がしない。 すごい。完全復帰だ。すばらしきかな人間の体。

楽に歩けるようになったので、内科に挨拶に行った。 なつかしい T先生と担当だった YSさんに会う。 快く歓迎してくれて嬉しかった。 病院は普段の生活よりドラマティクだな。

Dec.12.1997 Fri

看護学生が付くのは今日まで。 検温、洗髪、足洗い、背中拭き、ベッド掃除と、 いろいろ世話してくれたけど、 普段看護婦さんがやってることなんだよな。 看護婦は大変だ。
お別れの挨拶では、他の看護学生も集まって挨拶に 来てくれた。比較して申し訳ないが、 僕に付いたのは、やっぱりやんちゃな娘だなぁ。

Dec.13.1997 Sat

今回の手術では、内視鏡を用いた一般的な気胸の手術と 異なり、脇を縦に 15cm ほど切ったので、まだそこに ホッチキスの針が刺さっている。
今日は、それを半分抜いた。 ちょっとチクッとしたのは多分麻酔だろうけど、 抜くときは全然痛くないし、抜かれた感覚さえ無かった。

隣のおじさんが退院したら、病室内が一気に静かになった。 そして、周りは 60 以上のおじいさんばかりになった。 さ、さみしい。 売店まで行って本を買ってくるが、本も飽きてきた。 CD も聞き飽きた。笑うと肺が痛いからテレビもつまらない。 パソコンも疲れた。 家に帰りたいよ。

Dec.14.1997 Sun

とても暇。

Dec.15.1997 Mon

朝の回診で残りのホッチキスの針を取って、 会社規定の健康保険支給申請書と 医師の診断書を(有料で)書いてもらって、 ついに退院! 結局 20日間も入院してたのか。 今月 15日分の入院費は約20万円。 それから、入院前の保証金としての 5万円を引いた 15万円を払った。 生命保険会社の予想額は 11 万円だった。 あと、健康保険から、入院費 15万円のいくらかは数ヶ月後に いくらか戻ってくるそうだ。

退院といっても一週間は安静にしていないといけないのだが、 電車や自転車に乗って食料を調達した。 まだ、左腕に力が入ると脇腹が痛い。 これからは、きちんと規則正しい生活で、 食事もきちんと取らないと 再び病気になってもおかしくないだろう。

一週間後に病院の外来に行って、 傷に付いている糸を取ることが残っているが、 生活にほとんど支障が無い。 安静にして、ゆっくりテレビを見るというのもいいものだ。 しかし、さみしい。 病院と違って、一人暮らしの部屋には 当然自分一人しかいない。 思い返すと痛かったけど楽しかったなぁ。 普段の生活よりもいろんなことが起きて。 人生がつまらないと思ったら入院するといいかもね。